福島おうえん勉強会

チェルノブイリ被災地訪問報告
−ベラルーシ・ノルウェーで見た「放射線と向き合う暮らし」−

第2部 「ベラルーシで見たこと、聞いたこと、会った人」

1. 概要説明

文字スライドタイトル 『ベラルーシで見たこと、聞いたこと、会った人

司会:はい。それでは、本日二つめの講演を始めさせていただきたいと思います。では、ご紹介させていただきます。講演タイトルが『ベラルーシで見たこと、聞いたこと、会った人』ということで、福島のエートス代表の安東量子さんにお願いしたいと思います。よろしくお願いします。

文字スライド 「本日のお話」

こんにちは、安東です。では、よろしくお願いします。

私のタイトルは『ベラルーシで見たこと、聞いたこと、会った人』ということで、内容は、いろんな方(かた)にお話聞いてきたんですけれども、もう26年という時間が経過していますので、それぞれの時間の経ち方によって状況がどう変わってきたか、それぞれの立場から見たもの、という形でお伝えしたいと思っています。

事故直後と、事故のあとの混乱期、それから、1991年にソ連が崩壊してベラルーシが独立して、そこで大きく変わってますので、それからのところと、あと、それから1999年というのは、いろんな方が話を総合して、状況が落ち着いてきだしたのがこの頃らしいんですけれども、それ以降から現在、で、最後にまとめ、という形になってます。

スライド 「概要説明」写真:ブラギンの町 木のお人形

この写真はですね、私が訪れたベラルーシのブラギンという町の中の写真なんですけれど、とてもかわいい町なんです…ブラギン。

スライド 地図「ヨーロッパのCs137」

 最初に、チェルノブイリ事故によるヨーロッパのセシウム137の汚染地図ですね、さっきノルウェーの佐藤さんの時にもチラッと出ましたけど。画面のちょっと下のところに黄色く小さくあるところ、あそこにチェルノブイリの原発があって、私が行ったのは、そのすぐそば、直近ですね。

スライド 地図「ベラルーシ」

だいたい30kmから50km、今の日本の福島第一の警戒区域、今は20kmで区切られてますけれども、当時は30kmまで屋内退避とか、避難準備区域になっていましたので、そのすぐ周辺部になります。

で、印のつけてあるブラギンという町と、さらにその南側のコマリンというところに行ってきました。州で言ったらゴメリ州ですね。私が訪問したのは去年の10月から。10月の6日から9日。肌寒くなり始めるころでした。

スライド 地図「ブラギンの訪問地」テルマン・セレツ・クラスナヤ

そのブラギンの中のどこにいったかということなんですけれども、ブラギンという町、ブラギン市といえばいいんですか、ブラギン市の中心部がブラギンというところで、そのブラギン市の中のテルマン—村というよりも、むしろ集落というくらいの規模だと思うんですけれども—テルマン、セレツ、で、少し離れたところにクラスナヤというところがあるんですけれども、ここを訪問してきました。

 で、印のつけてあるブラギンという町と、さらにその南側のコマリンというところに行ってきました。州で言ったらゴメリ州ですね。私が訪問したのは去年の10月から。10月の6日から9日。肌寒くなり始めるころでした。

文字スライド 「チェルノブイリ事故概況」

まず、チェルノブイリ事故の概況を一応ここで整理しておきますと、事故が起きたのは今から26年前、1986年4月26日で、この頃はソ連時代です。4月26日に起きたんですが、避難が開始されたのは5月3日から5日にかけて。1週間タイムラグがあります。

その時に避難した人がだいたい2万4000人。で、ここで1991年の汚染区域の定義に関する法律とありますけれど、この汚染区域の定義が1991年に出来るまでは、どういう定義、どこがこういう汚染区域だという定義は全くされてないです。だから、1991年に出来た法律を基準に、1986年の頃のことも語ってるという感じです。

私たちが訪れたのは、区域の中でも三番目の、5から15Ci(キュリー)—向こうは単位キュリーでやるんですけれども—日本のベクレルに直すと、18万5000Bq/m2から55万5000Bq/m2の汚染区域です。1991年当時の基準です、数字ですね、これは。これは行政区分的に言えば、避難する権利がある区域、避難してもよいし、留まってもよい区域というところになります。

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