福島おうえん勉強会

チェルノブイリ被災地訪問報告
−ベラルーシ・ノルウェーで見た「放射線と向き合う暮らし」−

第2部 「ベラルーシで見たこと、聞いたこと、会った人」

2.事故直後

文字スライド 「概要説明」(Aの部分が赤)
文字スライド 「A:事故直後」

最初に、ではまず、事故直後の状況についてお話します。

スライド 「アナスタシアさんの経験(1)」アナスタシアさんの写真

 経験した方の、直接のお話をまずご紹介したいと思います。この、アナスタシアさんという、今、お年は70歳と言われてました。この方は、自宅はチェルノブイリ原発から7kmの位置にあるクラスナヤ村で、当時は、自宅ではなくて、避難の区域、30km圏よりちょうど、ほんの200mちょっと外側のところで勤務されていて、そこにいらしたそうです。

文字スライド 「アナスタシアさんの経験(2)」

事故から三日間は、ほんとうに、何の情報もなくて、起きたこと自体も知らなかった。火事かなんかが起きてるようだ、みたいな話は流れてきてたらしいですけれども、何もわからなかったと言ってました。

5月3日の深夜ですね、その時に急に政府から避難指示が出るわけですけれども、正式の指示が出る前の深夜1時くらいに、コマリンという、さっき紹介した村があるんですけれども、そこに住んでいた友人から突然電話がかかってきて、どうも原発が大変な状況らしいので、自分はこれから避難するんだと言って、電話を受けて、これはどうしたことだろうと思って、かなり彼女自身も混乱したらしいんですけれども、その電話から1時間後に、コルホーズ—ソ連体制だったのでコルホーズというのがあるわけですけれども—コルホーズの所長から、避難しろという命令が政府から出た。で、5月3日の深夜2時にその命令が伝達されてきて、二日後、明後日の午後3時までに全ての避難を完了しろと、全員避難しろ、と言われたそうです。

それが、アナスタシアさんの話だと、ちょうどイースターの1週間前だったらしいんですね。みんな、もうイースターだからって、あちらは結構いろいろ準備をするらしいんですけれども、あれこれ準備していた頃だったので、それが台無しになるな、そんな感じでよく覚えてると言われてました。

スライド 「アナスタシアさんの経験(3)」シマコフの絵画

 その時は、日本の福島の事故の場合もそうですけれども、一時の避難だとみんな思ったらしいんです。まあ、行くといっても数週間程度で、すぐに戻って来られるだろうと。

この写真は、ブラギンの歴史博物館に飾ってある、シマコフという画家がいるんですけれども、シマコフさんという人自身、強制避難区域の出身地で、そういう、チェルノブイリの体験を作品に多く作ってるんですけれども、これはその強制避難の時の経験というか、様子を絵にしたもので、椅子に腰掛けているんです。

これはあちらのほうの風習で、旅に出る前に、家族全員で椅子に腰掛けるんだそうです。それでまた、旅から無事におうちに戻って来れますようにという形にするそうなんです。この時も、避難の時もそんな感じで、みんなでちょっと椅子に腰掛けて、「また戻って来れますように」という形で避難して、でもその後戻れなかったわけですね。そういうふうに、避難指示が急だったので、かなり大混乱であったと言われています。

アナスタシアさんは、自分自身は避難指示区域のちょっと外側にいたもので、避難をずっと手伝ったと言ってました。やっぱり、周りが、がーっと逃げていくわけだから、周囲の避難区域以外の人も逃げていった人が多かったみたいですけれども、アナスタシアさん自身は、自分は知り合いも沢山いるし、お客さんですね—(アナスタシアさんは)獣医さんなんですけれども—自分が面倒見ている家畜のお客さんもいるわけだから、それをほっておいて逃げるという気には全くならなかったと言われてます。

スライド 「テルマン村ガリナさんの経験」ガリナさん写真

この方は、もう一人の、別のテルマン村というところのガリナさんという方です。ここの、ガリナさんのお宅なんかは、4ヶ月間軍隊が駐留して、他の地域がどうだったのかはわからないんですけれども、少なくともここはかなり軍隊が付きっきりでいろいろな対策をしていってくれたようでした。

除染ですね、除染。屋根を葺き替えたり、壁の洗浄をしたり、そういうことをしてくれたと言ってました。

で、周囲がそういう状況なので、かなり最初は不安だったんですけれども、この方は精神的に強いのか楽観的なのかわからないんですけれども、最初不安だったけれど、数ヶ月間経ってみたけれど、どうってことないから、だからもう自分は逃げないでいいやってことにして、ずっとここにいることにしたと言われて、この方自身は避難されてないです。ただ、家族とか、親御さんとか、親戚とかは避難してるんですね。この方は残られた。

スライド ベラルーシの地図(86年5月の空間線量)

これは1986年の5月10日時点の空間線量の地図ですね。単位がR(レントゲン)です。中心部がチェルノブイリの原発なんですけれども、クラスナヤというあたり、あれがさっき紹介したアナスタシアさんの故郷のところです。

ここは5月、これは5月10日の時点ですけれども、5月1日時点の数値で3300μSv/hの空間線量があったというデータが残ってます。この20mR/hというのは、マイクロに直すと、200μSv/hになるそうです。

私が行った、その上にあるテルマン、セレツ、ブラギンあたりというのは、ざっとした計測なんで、ちょっと違うかもしれないんですけれども、3mR/hなので、だいたい30μSv/h。5月10日なので、事故から2週間後くらいの時点ですね。だいたいそれくらいの数字だったところだそうです。

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