福島おうえん勉強会

チェルノブイリ被災地訪問報告
−ベラルーシ・ノルウェーで見た「放射線と向き合う暮らし」−

第2部 「ベラルーシで見たこと、聞いたこと、会った人」

4.ベラルーシ独立後

文字スライド 「概要説明」(Cの部分が赤)
文字スライド 「C:ベラルーシ独立後」
文字スライド チェルノブイリ事故対策が本格化

次にベラルーシの独立後。ここが大きな転換点になっています。何度も言いますけれど、1990年から91年に関して、この避難区域の定義と、避難者の社会保障に関する法律、2つの法律が成立します。ここで初めて汚染区域が定義されます。この時の—さっき出しましたけども—土壌汚染濃度ですね、これは1990年頃から始まった調査データです。これの定義をしたことによって何が起きたかというと、避難者が最大人口を記録するんですね。

文字スライド タイトルなし 避難・移住についての説明

避難する権利がある区域と定められた場所の人たちで、移動した人が非常に多かった。チェルノブイリの事故の原発で関連して、1990から91年に限定しないんですけれども、総避難者数が11万7000人。ベラルーシの人口が約1000万人といわれてますので、全人口の1.5%が移動したと。

91年の汚染区域の定義に基づく推計だと、1986年当時に、ベラルーシは1Ci(キュリー)以上の、(1Ciが3.7×1010Bq)平米ですね、3.7×1010Bq/m2以上が、何らかの対策をしなくてはいけない区域と定められてるんですけれども、その「何らかの対策をしなければならない区域」に居住していた人口というのは、ベラルーシの全人口の1000万人中、220万人。

つまり、1/5以上の人口の人々が住む区域が、何らかの対策をしなければならない区域だったといわれています。220万人中の1.1%が、強制避難区域になります。ベラルーシのそういう全土の土壌汚染マップが完成したのも、1991年です。日本では今もうマップが既にできていますけれども、ベラルーシは全土の汚染マップができるまでに、5年かかっています。

スライド ゴメリ州の汚染地図

これがそうですね。最初にご紹介した。  

文字スライド 「セレツ村・テルマン村」避難の権利のある区域

その1991年のマップが出来た頃に何が起きたか。セルツ村、テルマン村は、避難の権利がある区域と定められたんですけれども、1991年頃を境に、不安のパニック状態が収まった、と言われます。

「収まったんだから、何か理由があるんじゃないの?」と聞いたんですけれども、「理由はない」と言われちゃうんですよね。だから、本人としては、すごく大きな、「これがきっかけで収まった」というわけではないんだと思うんですね。ただ、「時間が経っても何も起きなかったから」とは皆さん口を揃えて言っていて、やはり初期の頃は、「何か起きるぞ、何か起きるぞ」と言われてたし、そういう噂も広まってた。ところが、5年も経ってみて、「いいかげん時間も経ったら…何も起きなかった」という雰囲気が広がってきた。

あとは、一緒に行ったベラルーシの情報センターの方の解説だと、1991年の法律、汚染区域の定義で、セルツ村、テルマン村、ブラギン地域は、避難の権利のある区域と定められた。「避難の権利のある区域」というのは、住んでもいいし、避難してもいい。だから、「住んでもいい」という意味でもあるわけですね。それまでは、「住んじゃいけないんじゃないかな」と思っていたのを、「住んでもいいんだよ」と言われたのも大きかったんじゃないかな、と言われてました。

ただですね、私がお会いしたのは、皆さん残られた方なので、避難された方、避難しっ放しになった方というのは、当然村には残ってないので、だから、避難された方も当然いるわけです。テルマン村というのは、人口が半分に減ってます。必ずしも91年だけの避難ではないですけれど、セルツ村も30%が避難しています。だから、事故前に比べると、人口ははっきりと減りました。

ただ、「1992年以降はセルツ村では出生率が増加してますし、セルツ村を含むブラギンの全体で考えても、1998年、ゴメリ州っていう大きな括りの中でも、出生率が最高になってます。このことは何度も繰り返し言ってましたので、住民の方にとっても、すごく大きなことだったみたいです。

スライド 「避難経験(1)」4名の女性の写真

避難した方、避難経験についてもおうかがいしてみました。一度は避難された方というのは多いんです。戻られた方も。避難してても戻って来たという。だいたい、この法律ができた頃に移住した方。

えーとですね、この写真の左から2人目の、ちょっと丸めの、ベージュの上着を着た方、1990年に1回移住されてます。その当時は「避難の権利のある区域」ということなので、移住費用は無料。政府負担だったそうです。で、移住先で、ベラルーシなんかは、未だソ連ぽい制度がそのまま残っている所なので、給与制度などがどういうものなのかよく分からないんですけれども、年金にプラス25%、避難先で貰えたと言ってました。これが避難者に関する補償の1つだと思うんです。ただ、ずっと戻りたい気持ちがあったので、1993年に戻ってきたそうです。ただですね、それから4年後に2人目のお子さんを妊娠されたそうなんですけれども、その時に不安感が強まってきて、精神的に不安定になって、「本当にここで安心なのかな」という気持ちがまた強まってきて、それでその時にまた引っ越されたそうです。で、2回目の移住費用に関しては、これは自費、普通の引っ越し扱いだそうです。だから、たぶん、「避難の権利のある区域」というのは、1回目の移住に関しては政府負担で無料なんですけれども、2回、3回と繰り返す場合は自費になるのかなというふうに。これはちょっと確認してないので、本当かどうかわからないですが、そう思いました。

ただ、避難先でもやっぱり落ち着いた気分にはなれなくて、戻りたいという気持ちのほうが強くなったので、1998年に戻ってきて、それ以降はずっと、また、ここのセレツというところで暮らされているそうです。お子さんはもちろんお元気だそうです。

スライド 「避難経験(2)」女性の写真

この方はテルマン村の方なんですけれども、当時高校生だと言われてましたけれども、高校生で、ゴメリという、ブラギンの近くでは比較的、大きな都市ですね、そこに避難したそうです。そして、そのまま避難先で高校卒業して就職して幼稚園に勤務したんですけれども、避難者だということで、距離を置かれる。差別的な扱いを受けたと言われて、具体的にどう差別的だったのかわからないんですけれども、陰口を叩かれるような、そういうことが非常に多くて、精神的にとてもきつかった。本当にきつかったような雰囲気で話されてました。で、ずっと帰りたくて、結婚を機会に村に戻ってきたと言われてます。

スライド 「避難経験(3)」おばあさんの写真

このおばあちゃんですね。この方もゴメリに避難されています。戻って来たのが9年後。だから、「いつ戻らなきゃいけない」というような規則とかもないわけですね。自分が戻りたくなった時に戻れるようになっているようです。9年も経って何で戻ってきたのかなって思うんですけれども、戻ってくる理由は「ない」と言われてしまいまして。ベラルーシの方って、質問すると、「理由はないです」、「なんとなくです」と答えられることが非常に多くてですね、こっちのほうが「そんなことはないだろう」と思うんですけれども、「理由はない。ただ、ずっと戻りたかったんだ」と。「戻りたい気持ちはすっと避難先で思っていて、なんだか、戻ってもいい気分になったから戻った」。自分の中でたぶん、不安感というか…が消えて、ちょっと安心して戻れる気持ちになったんだろうなあ、と思います。

文字スライド 残留者・帰村者の声

戻ってこられた方たちに、「避難してしまった人たちについてどう思いますか」と聞いたんですけれども、あっさりと淡白に、「別にどうも思わない」と。「それはしょうがないよね、それぞれの選択だから」。

ただ、「避難先生活が辛いんだったら戻ってくればよいのにとは思う」。というのは、村の人たちに話を聞くと、避難先で体調を崩される方というのが非常に多いそうです。特にですね、壮年、40代から50代、当時ですね、働き盛りの世代になる男性というのは体調を崩される方が多くて、病気になったり早く亡くなる方が多いという話をした後に、「そういう状況になるくらいだったら、こっちにね、戻ってくれば良かったのになぁと思う」。私たちから見たら、ただのエピソードですけれども、この人たちにとってみれば、よく知った相手ですからね、避難された方も。戻ってくれば良かったのにな、と思うと言われてました。

ゴメリとかミンスクという大都市ですね。ミンスクはベラルーシの首都なんですけれど、避難者住宅が大規模に建てられたそうです。それは今も存在するというふうに聞いたので、今もそこに行けば一定数の避難者の方たちがいるのかなと思います。 一度戻られている方たちも、今さっきご紹介したように、一回位は避難したという方、結構いらっしゃいます。

スライド 「避難者の状況」絵画の写真

避難された方がどういう状況かというと、チュプス・ジャンナさん—後で出ますけれども、避難者の精神的サポートもされているらしいですけれども—避難したからそれでオッケーというわけではなくて、やはり故郷への思いが強い、「家を再建したい」、「故郷へ帰りたい」、避難者を対象としたお茶会なんかを開かれているそうです。けれども、そこではそういう声をよく聞くというふうに聞きました。

だいたい毎年4月から5月、イースターの時期だと思うんですけれども、その頃は強制排除区域、立入禁止区域も出入りしてよくなるのだそうです。その時期に、立入禁止区域になった所に墓参りに来る避難者が多い、と言われています。

文字スライド 「95年〜 COREプロジェクトの開始」

1995年からですね、これ、ロシア語の発音だと「コール」と言うのですけれども、「COREプロジェクト」というのが開始されます。これはEUの援助によって始まったベラルーシの被災地支援のプロジェクトですね。ここで最初に行われたのが放射能測定センターの設置。これが、私が始めているエートスの本家エートスの活動になるわけですけれども、1995年頃に最大の数で、ベラルーシ全土で360ヶ所、放射能の民間測定センターが設けられたそうです。現在はもう数が減っていて、15ヶ所程度になっています。これは行政側の対応も整ってきて、民間が頑張らなくても、行政側である程度対応が取れているという面も大きいです。

この放射能測定センターで何をしたかというと、コマリン、ブラギンでは、先ず最初にしたことというのは、子どもを対象としたホールボディカウンター(以下WBC)の測定ですね。いわゆる内部被曝の測定です。それをするまでは、測定というのはあまりされていないわけですね、内部被曝に関しては。で、WBCで計測したら、減らさなくてはならない—対策をするために食品も検査するし、生活を指導、どういう食品を食べて内部被曝が増えているかとか、原因を探してそれを指導するという—そういう活動をしまして、実際に当時測った時には、最高で2500Bq/kg内部被曝している子どもさんとかいたそうですけれども、それを30Bq/kg以下まで抑えるようにしたと。だから、2500Bq/kgだから、20kgの子どもだとしても5万Bqですか、/Bodyだと。内部被曝量としては、かなり多いですね。それで、こういう活動をしていると、何がリスク要因になっているかというのも見えてくるんですね。その結果、はっきりと見えてきたのは、ハイリスクの要因になるというのは、キノコ狩りのキノコを食べること、狩猟の野生の肉を食べること、あとは、汚染されたミルクを飲む場合。この3つの要因が内部被曝のリスクを押し上げている、ハイリスクの要因になると。そういうことが判明したそうです。

スライド 「アナスタシアさん コマリン家畜病院」アナスタシアさんの写真

この民間測定所でですね、一緒に活動されていたのがアナスタシアさん、この方、プロジェクトの最初からずっと関わられているそうです。アナスタシアさんも、もとは獣医師さんなわけです。「事故の前は何も、放射線の知識はなかった。まったくわからなかった。身近に線量計なんかも、一つもなかった。ただ、事故の後に自分で勉強したのだ」と言われています。

この方が言われていたのは、パニックを収めるには、まず自分で勉強することが大切だ。それをすれば、自信を持って他の人に伝えられるようになる。そういう人が地域にいるということが、とても大切なのだと。彼女は事故が起きてからずっとやっていますので、地域の事情などについても精通しています。中央のミンスクにいる、ベラルーシ情報センター、今回私たちの訪問をコーディネイトして下さった方たちですけれども、この方たちも彼女のことを「ローカルプロフェッサー」と呼んで、非常に尊敬されています。

つまり、1/5以上の人口の人々が住む区域が、何らかの対策をしなければならない区域だったといわれています。220万人中の1.1%が、強制避難区域になります。ベラルーシのそういう全土の土壌汚染マップが完成したのも、1991年です。日本では今もうマップが既にできていますけれども、ベラルーシは全土の汚染マップができるまでに、5年かかっています。

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この方も、アナスタシアさんと一緒に、民間測定所で一緒にされた方です。タチアナさんといいます。このタチアナさんの言葉で非常に印象に残ったのが、「自分自身のライフスタイルを維持するために放射線防護の知識が必要になるんだ」というふうに言われています。 放射線防護をするために、自分自身のライフスタイルを変えなきゃいけないのではなくて、むしろ逆に、自分自身の生活を維持するために、放射線防護が必要なんだ…彼女もコマリンの人なのですけれども、半年は避難されて、でも、戻ってきて、その後は民間測定所に関わって、ボランティアですね、これはね。「故郷のためにいつも働きたいと思っている」というふうに言われています。

スライド 「COREプロジェクトの成果」アンナさんの写真

コール・プロジェクトというのは、そういう実質的な放射線防護活動としての効果もあるんですけれども、それ以外に住民のメンタルに対してもすごくプラスの効果があったというふうに言われていて、この方、ブラギンの実行委員会…実行委員会というのは、ベラルーシは今も国営企業体制が続いていますので、市役所の中に経営委員会があるのですけれども、実行委員会というのは、そういう国営企業の経営方針を決めるところだそうです。

このアンナさん、ベラルーシ人の方というのは、非常に大人しいんですね。私も行って驚いたのですけれども、割とロシアのイメージがあったので、ロシア人の方々がウォッカとか飲んで、すごく陽気にしているイメージが頭の中にあったので、ベラルーシも同じようなものだろうと思って行ったら、非常におとなしくてですね、こっちから手を差し出さないと握手もしてもらえない、目もなかなか合わせてくれないくらい大人しい方たちで、自己主張しないそうです。ただ、COREプロジェクトという、民間で、自分たちで測るという活動をした結果、ヨーロッパの支援プロジェクトなので、フランス人の方たち、外国人が沢山、地域に来るわけですね。そういうフランス人の人たちとかを見て、フランス人の方たちは自分の意見をはっきり言いますから、それが刺激になって、「自分自身で何とかしよう」という前向きな空気が広がってきた。それまで諦めていて、「どうにもならない、自分たちはもうどうしようもないんだ、こういう放射能のある所でそのままやっていくしかないんだ」という諦めの空気が強かったそうですけれども、それが変わってきて、イニシアチブ、「自分で何とかしていこう」という人たちが増えてきた。それが一番大きな成果だったというふうに言われていました。

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