福島おうえん勉強会

チェルノブイリ被災地訪問報告
−ベラルーシ・ノルウェーで見た「放射線と向き合う暮らし」−

第2部 「ベラルーシで見たこと、聞いたこと、会った人」

3.事故後〜1991(混乱期)

文字スライド 「概要説明」(Bの部分が赤)
文字スライド 「B:事故後〜1991(混乱期)」
文字スライド タイトルなし 内容は86年から91年までの行政対応

事故後の状況ですね。

最初に、1990年から91年にまず、避難区域の定義と、それから、区域の定義をするということは、そこに住んでいい場所、住んでいけない場所とに決められるわけなので、当然、補償と抱き合わせじゃないといけない。なので、区域を定義すると同時に、補償の法律が通ります。ここは大きな転換点になってます。

1986年から91年まで5年間かかってますけれども、この5年間の間というのは、そういう定義そのものがなされてないので、対策はされてないわけではないんです。いろいろちょこちょこあったと思うんですけれども、統一的な、全国的な対策というのはできてないそうです。

1991年の定義によって避難区域とか決められるんですけども、その前の強制避難の段階では、空間線量率ですね、最初の1986年頃の時点については、空間線量率に基づいて、だいたい避難を出して。で、1991年になると、これはだいたい土壌汚染の濃度に基づいて区域定義をしています。土壌汚染のほうは計測に手間が掛かりますので、これはまあ、合理的な対応と思います。

スライド 「セルツ村・テルマン村(1)」4人の人物の写真

1986年から91年くらいまでの間の雰囲気ですけれども、村ではですね、やはり不安感やパニックというのは強かったと言ってます、みんな口を揃えて。健康に影響があるんじゃないか、これは当然ですね。やはり、ベラルーシのほうでも、子ども、奇形児とか、出産異常があるという噂は、ものすごく広まっていて、実際に出生率は低下したと。1988年から89年にかけては最低の出生率だった。やはり若い夫婦が子どもを作ることをちょっとためらうような雰囲気があったそうです。

文字スライド 「セレツ村・テルマン村(2)」

避難区域の定義がなされてないので、初期の、30km圏内とかの強制避難以外のところは、まず、本当に住んでもよいのか、大丈夫なのか、そういう不安感が強くて、常に「ほんとに自分はここにいてもいいのかな? いけないのかな?」そういう中にさらされていたそうです。農業生産は一切停止したと言ってました。自家菜園も作っていないし、出荷用のものも作らなかったと、ブラギンのあたりの人は言われてました。

それで食べ物は、生活は大丈夫だったのかなと思ったんですけれども、私が話を聞いた人たちは、ソ連崩壊までの間というのは、食糧品の購入用という名目で、政府が給料を倍出してくれていたらしいんです。その他、大した額ではないんですけれども、ミルクを購入する補助代であったり、子どもがいる家庭には子ども用の補助金が出されてて、「食べるものなくて大変だったんじゃないですか? 生活どうだったんですか?」と聞いたら、「いやいや、あの頃はけっこうそうやってダブル給与って言ってましたけれど、給料2倍あったので、生活余裕がありましたよ」と言われてしまって。これが本当に全域で広く行われていたのかどうか、というのはよくわかりません。ただ、私が話を聞いた人はそういうふうに言われていて、私もちょっとびっくりしました。  

スライド 「ブラギン衛星管理局 放射線管理センター」女性の写真

この人は、ブラギンの衛生管理局の放射線管理センターという所で、放射線の、地域のモニタリングをするところです。事故後の1986年から放射線管理センターは運営開始されました。やはり1991年までは、地域内が混乱していたと言ってます。住民の人から質問が沢山くるわけですけれども、この人たちのところには、どういう質問が多かったかというと、どういうふうに生活すればいいんだと、どういうことを守ればいいのか、どういうことをしたらいけないのか、そういうとにかく、生活の仕方そのものがわからないという質問が非常に多かったと言ってました。

スライド 「コマリン営林署」森の写真

これは営林署で聞いた話ですが、営林署では、森林ですね、森林は事故後の数年間は立ち入り禁止になったそうです。これは、ブラギン地区のあたりですね。ゲートが設けられて、兵士が出入りを監視して、許可証を持った人間が立ち入りすると。ただ、許可証を持った人たちは結構頻繁に、普通に出入りをしていたようなことは言ってました。ただ、ブラギンのあたりも、森林にはみんな入るんですね。木材は薪とかに使用しますし、キノコ採りとかベリー摘みとか、そういうことが日常的に、ごく普通に行われているところなので、そこが立ち入り禁止になって人が入れなくなるということになると、森林に人が入らなくなって、人が入らないということは、通常の状態とは違う状態になるわけです。森林が荒廃するって、山に馴染みのある人は言うんですけれども。都会の人には、ちょっと分かりにくい感覚かもしれないですね。で、キノコ狩りなんかも禁止になりました。

文字スライド 「政府対応」

政府がその間どういう対応をしたか、一応、除染なんかも行われてます。行政施設に関しては、20cmの表土除去を行って、道路は未舗装の所も当時は多かったらしいんですけれども、粉塵を吸い込むということで、コマリン地区なんかに関してはもう道路を全部舗装してアスファルトにしたとか。あとですね、薪を利用して暖房であったりとか料理とか、そういうものに使っていたんですけれども、ご存知の通り森林が汚染されてますので、それを使わないで済むようにガスを引く。大きなパイプラインというんですか、道路の脇を通ってる時に、パイプラインが通ってるので「これなんだ?」と聞いたら、「これはガスだ」と。「事故の後に引いたんです」と言われて。ソ連政府みたいな、ああいう、なんていうか、政府が力を持っているところは、その気になったら、一気にこういうものを引けるんだなあと思って、すごく印象に残ってます。

あと、民家に関しては、屋根の葺き替えであったり、壁の洗浄などで除染してますが、これがどの程度の範囲でやられたのかというのは、ちょっと分からないです。ロシアーベラルーシ情報センターの方に、「除染っていうのはどうだったんですか」と。そんなに、おそらく広範囲にはできてないと思うんですね、費用の関係で。効果そのものに関しては、「あったとかないとか、結論をいうのは非常に難しい」と。「ただ、試してみた結果、放射性物質というものは、思ったよりも減らせるということがわかった」と。それに関しては、成果と言っていいだろうというふうには言われてました。

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